気にすることなんてない、そんな些細なことだれも覚えてないさ。
そうは思うものの、ついつい気になってしまう。
「あの一言は余計だったんじゃないか」
「よく考えたら失礼な言い方をしてしまった気がする」
「馴れ馴れしく話してしまったけど、相手は嫌だったかもしれない」
これらの心配は99%思い込み、気のせいなのだが、それでも勝手に悩んで「自分はなんてダメなやつなんだ……」と落ち込んでしまう。
わたしは人生でたぶん100回以上、「そんなのだれも気にしてないから大丈夫だよ」と言われたと思う。わかってるよ、それでも気になるんだよ!
気にしすぎ人間がラクに生きるためには、なにが必要なのだろう。
気にしない鈍感力? いや、そうではない。
性格ではなく技術の問題だと考える、ソーシャルスキルだ。
目次
「気にしすぎだよ」と言われても前向きどころか自己嫌悪に
「小さなミスなんて誰にでもあるさ。落ち込んでるヒマがあったら、次がんばればいいだろ」
「相手は気にしてなかったし、考えすぎ」
「そんな深い意味はないよ。その程度の発言はさらっと流さないとやっていけないぞ」
傷つきやすく、小さなことを引きずり、プレッシャーに弱い臆病な人に対し、こうやって「元気づけている」人は多い。
しかし気にする側の人間からすると、こういった「励まし」はほとんど無意味である。
なぜなら、気にしすぎている自分を責めているのは、ほかならぬ自分自身だからだ。
気にする必要がないのに気にしてしまう、いつまでも考え込んでしまう、悪いほうに受け取ってしまう。気にする自分がまちがっているとは思いつつ、また傷ついてしまう。そして、自分はなんてダメなんだ、と落ち込んでいく。
さて、わたしはこういう気にしすぎ人間だから、人と関わるとすぐに悩んで疲れてしまう。
アドラー心理学では「すべての悩みは対人関係」といわれるそうだが、納得である。
……いや、待てよ?
すべての悩みが対人関係から発生するのであれば、ヒトとの関係性ではなく、モノとの関係性に捉えなおせば、悩みがなくなるのでは?
失言!相手が好きなものを否定してしまった
最近仲良くなった人がアニメ好きだと知ったときのこと。
相手はブラクロ(ジャンプ漫画原作の『ブラッククローバー』)にハマっていて、最近よく見ているらしい。
「わたしもブラクロ見てたよー!」
「そうなんだ! おもしろいよね~」
「うんうん。でも作画が微妙じゃない? 最近きれいなアニメが多いから、そこで物足りなくなって見るのやめちゃったんだよね」
「あー……」
「あっごめん! ストーリーはおもしろいと思うよ! ただわたし、グラフィックがキレイなアニメが好きで」
「ああ、そうなんだ」
と、わたしの失言で空気を悪くしてしまったことがあった。
すぐに謝ったし、向こうも「まぁ作画がウリのアニメじゃないしね」と言ってくれたが、これは明らかにわたしが悪い。どっからどう見てもわたしが悪い。
しかし残念なことに、わたしは時折こういう失言をしてしまう。
というのも、わたし自身は、自分の好きなものを相手が好きじゃなくてもまったく気にしないからだ。
わたしはハロプロが好きだが、「モー娘。ってまだあるの?」とか「AKBが出てきて終わったよね」なんて言われても、「わたしが好きだからそれでいい」と思う。
だからわたしも、相手の好みに関わらず、自分が好きかどうかを口に出してしまうのだ。
でもそれは多くの人にとっては気持ちよくないものだから、言うべきではない。それなのに、たまにやらかしてしまう。
そして、「なんでまたやってしまったんだ。自分は本当にダメな人間だ。相手に嫌な思いをさせてしまった。きっと嫌われた。もう終わりだ」とどんどんドツボにはまっていく。
ああ、人間関係はむずかしい!
対人思考回路から対物思考回路に転換する
こういった悩みを解決するにはどうしたらいいか。
そこでわたしは、アドラー心理学の「すべての悩みは人間関係」という言葉を思い出した。
悩みが「対人」からくるものなら、「対物」で考えれば悩みがなくなるはずじゃないか!
わたしは相手の好きなものを自分が好きじゃなかった場合、「自分は好きじゃない」と言ってしまう。
感情ベースの「対人」の考え方だと、口をすべらせたとき、「自分はなんて思いやりのない人間なんだ」「こんな自分は嫌われて当然だ」と落ち込んでしまう。
そこで、「相手の『好き』を否定してしまった」という事実ベース、「対物」の考え方にしてみるのだ。
「好きを否定した」という行動が悪かったのであれば、次からは正しい行動をすればいい。
「好みがちがっても、好意的なリアクションをしたほうがうまくいく」
「つまりわたしは、『自分は途中で見るのをやめてしまったけど続きが気になる』とか、『どのキャラクターが好きなの? 最初のほうならわかるよ』と言えばよかった」
と考えていく。
「対人思考回路」だと相手の気持ちがわからないので悪いほうに捉えてしまうが、「対物思考回路」にすれば、「こういう状況でこうしたからこうなった」「そうならないためにはこうしよう」と、具体的な対処法を考えることができる。
こうすれば、悩みを減らすことができそうだ。
……という考え方を、心理学用語で「ソーシャルスキル」というらしい。
性格ではなく技術の問題だと捉えて解決する
ソーシャルスキルとは、対人関係において目標を達成するのに適切な技巧・行動・思考の総称。つまり、「ほかの人に対する振る舞い方やものの言い方」を指す。
その名のとおり、「ソーシャル」のなかで生きていくための「スキル」ということだ。
日本心理学会が運営している「心理学ミュージアム」というサイトでより詳しく説明されているので、紹介したい。
例に挙げられているのは、友だちに「入れて」と言えずにいつもひとりで遊んでいるAちゃん。
周囲から孤立している状況を、「Aちゃんは内気だから」と性格のせいにしてしまえば話はかんたんだ。
しかし「仲間に入りたければ内気な性格をなおすべき」となると、解決はむずかしい。性格なんて、すぐには変わらないから。
そこで、考え方を「対人思考回路」から「対物思考回路」にしてみる。
「Aちゃんは内気だから他の子と遊べない」のではなく、「Aちゃんは『入れて』と言うことができないからひとりぼっち」と捉え、「ならば言い方を習得しよう」という方向に持っていく。
性格ではなく技術の問題にして、「それを習得すれば解決できるね」と解決方法を模索するのだ。
そしてAちゃんは、先生と一緒に「入れて」と言う練習をし、友だちに「入れて」と言えるようになった。めでたしめでたし。
このソーシャルスキルの例は、「感情ベースで考えると悩むだけなので、対物ベースにして解決法を探そう」という、わたしがアニメの話でやらかしたときとまったく同じだ。
事実ベースで問題を整理して、対処法を考える
せっかくなので、中学校保健体育の副読本にある例も併せて紹介したい。
中学2年生のケンは楽しく中学生活を送っているが、進路に関して親と意見が分かれており、仲のいい友だちにも自分のことをわかってもらえない気がして悩んでいる。
そんななか、いつもテストでいい点を取っていたのに、平均点以下の点数を取ってしまう。「オレ終わった……」と絶望し、母親にも「こんな点数取るなんて」と失望されてショックを受ける。
その後、母親に「受験どうするの」と言われても会話を拒絶し、部活でもチームメイトに強く当たってしまいうまくいかず、部活に行かず部屋に引きこもるように……。
ケンにとってはなにもかもうまくいかない状況だが、母親はケンを心配しているだけで失望なんてしていないし、部活ではキャプテンとしてみんなから信頼されているから、まったく問題ない。
しかし本人はそれに気付かず、「自分はもうダメだ」と悩んでしまう。
「対人思考回路」で考えると、「母親が溜息をついている。失望された」「友だちに『らしくないぞ、どうしたんだ』と言われた、嫌われた」と、悪いほうへ考えがちだ。
しかし「対物思考回路」で考えると、問題を整理し、それぞれの対処を考えられるようになる。
- 進路に関して親と意見がちがう→進路の考えが定まっていないのかも→親に自分の意見をもっと丁寧に伝えて話し合う
- テストの点が悪い→勉強法が合っていなかった可能性→先生に相談してみる
- 友だちとうまくいかない→最近自分がイライラしている→自分自身の態度がよくなかったから、謝ってまた部活に行こう
このように、性格の問題ではなく技術の問題だと捉えて対策を考えるのが、ソーシャルスキルだ。
気にしすぎる人に必要なのはソーシャルスキルを身に着けること
すぐに自分を責めて落ち込んだり、人と関わるのが苦手で壁を作ってしまったり……気にしすぎる人に必要なのは、「性格を改善する」ことではなく、「対処するスキル」だ。
性格はすぐには変わらないし、「なんで自分の悪いところをなおせないんだろう」とより一層落ち込んでしまうから、対処法を学ぶほうがよっぽど現実的である。
気にしない人からすれば、いったいなにに悩んでいるのかわからない、そんな些細なことで傷つくほうがおかしい、と思うかもしれない。
でも気にしすぎの人にとって「気にするな」という励ましは、ときには頼もしいが、同時に「わかってるんだけど……」と自己嫌悪の引き金になってしまう。
というわけで、気にしすぎて悩んでいる人に対しては、「気にするな」ではなく、「こういうときにこうしたのが問題だからその問題の対処法を考えよう」と、性格の問題からスキルの問題に転換し、対物思考にする手伝いをしてあげるのがいいんじゃないだろうか。